2019年2月2日土曜日

淀川のお台場

お台場と言ってもテレビ局もガンダム像もありません。どころかなーんもない公園でした。場所は淀川沿いの随分内陸部にある「楠葉(くずは)台場」。「兵(つわもの)どもが夢の跡」は夏草どころかきれいに整頓されておりました。
番所にしょっぴかれた「たんちょう号」
山城大橋まで木津川CRを走り、京田辺市内を横断して地元で山手幹線と呼ばれるバイパス道路を走ります。JR松井山手駅辺りまでは名の通り、山手に向かってジワジワ登りますが車道は大渋滞中。いつものことだそうです。道は近代的な住宅地を抜け国道1号線BPとクロス。この付近があの洞ヶ峠です。「日和見」で有名になった場所ですね。交差点の脇にひっそりと「筒井順慶陣所跡」なる石碑が立ってましたが、風化して全然読めん。両脇にはドでかい看板あるし、400年以上前のメモリアルにしては質素。

筒井順慶陣所跡 と書いてある(気がする)
ここです洞ヶ峠
洞ヶ峠から男山の住宅街を駈け降りると淀川沿いの橋本宿です。かつて石清水八幡宮に参拝する人たちの宿泊場所だったところ。このすぐ脇に楠葉台場がありました。枚方市と八幡市の境界付近です。新しいスーパーやドラッグストアの隣に拡がるのは、まるで公園。周囲に新しい家が立ち並んでるので格好の子どもの遊び場になりそう。

楠葉台場のほぼ全景
右(土塁跡)が左(番所)より少し高くなってます
楠葉台場は幕府が淀川を遡上してくる異国の軍艦を迎え撃つために設置したそうで、勝海舟設計とか。大砲3門を備え、若干高くなった土塁跡もありました。番所もあったそうで、京へ入る反幕府勢力を検問する目的もあったようです。
砲台としては、実際戊辰戦争で使われ、薩長軍に占領された対岸の梶原砲台と撃ち合いになったとか。ところが肝腎の京が薩長の手に落ちて背後から攻められ陥落したそうです。元々遡上する軍艦を撃つための砲台ですからね。京向けて撃つことは想定外だったようで、今でもありそうな話です。
楠葉台場は建物のイメージがないので判りにくいですけど、レプリカでもあると説得力出るなあと思いました。番所型休憩所とか火薬庫型トイレとか大砲型シーソーとかね。京阪電車を砲撃してしまいそうだけどインバウンドにはウケるかも。

京阪電車は格好の標的に・・・
続いて京阪橋本駅付近に戻り、何とか裏道で八幡市まで走ってみました。道が細くて行き止まりもありハラハラしながら走りましたが、ママチャリや原付について行って到着。飛行神社に参拝後、流れ橋PAまでは下道を走り、以降はCRで帰って来ました。本日走行71.9km。
飛行神社のステンドグラスと照明器具?神社に見えんっしょ 
あちこちに述べられてますが、洞ヶ峠で筒井順慶が「どっちにつこーかな」なんて日和見した話は違うみたいですね。そもそも筒井順慶はここまで出張っては来ず、城に籠ってたって話で、ここには「行けまへん」と連絡手下を遣わした程度みたい。じゃあ、なんの陣所があったんだ?争いの張本人の明智光秀が布陣してたらしいけど石碑にはちゃんと(読めんのですけど)「筒井」と書いてある(気がする)。その下には 右:どこそこ,左:どこそこ の道案内が彫ってある。じゃあこれって交通標識?「筒井順慶陣所跡」って単なる交差点の名前? しかも石碑の脚元は新しそうなコンクリート。そもそも山手幹線って最近の道路ですから、元々ここにあったとしたら超山の中。そこがこんなきれいに交差点の歩道の端っこになるだろーか。考え出すと奇怪なことが次々湧いてきて、やっぱりここは

ホラー峠。

PS. CMです。2月中旬頃から新作WEB小説”海のテティス”を各ノベルサイトに掲載予定です。
  今度の話は瀬戸内を舞台に、男子中学生に従姉の高校生を絡めたちょいラブストーリー。
  まあよくあるパターンですわ。自転車は出て来ませんが、ほんの少し競泳が出てきます。
  前作”Mirror Twin”のような起伏はなく、水彩画の淡いイメージで考えてます。
  またよろしくお願いします。

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